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翻訳,それと原文に関する雑感

はじめに

翻訳は極めて偉大な所業に相違ない.それは万人が認めるところであろうと思う.
しかし同時に,翻訳された文ではなく原文を読むべきという意見もある.それもまた当然のことである.
細かいところはさておき,この辺りについての雑感を記しておきたい.

翻訳の利点・欠点

翻訳は素晴らしいものであり利点は大きい.だが欠点があるのも事実である.それについて少し述べる.
特に主張しない限りここでは他国語で書かれたものを母語に翻訳されたという仮定をおく.

翻訳の利点

第一に,言うまでもなく他国語の文章が母語で読めることである.
小説であれ論文であれ漫画であれ,他国語のものはその言語に精通していなければ充分に読むことが出来ない.
論文や教科書の類ならばそれはまだ楽である.文章の構成は基本的に定まっていて,(多少の慣用句に関する知識は必要であれど)無駄に複雑な言い回しはしない.
しかし小説や漫画などになるとそうもいかない.
それこそ母語で書かれたそれを読めば分かるだろうが,まず母語に精通していなければ容易に判断できないであろう文章,セリフと言うのは多く存在する.
他国語で書かれたそれを,他国語に精通しておらずとも母語の言葉で理解できる.これが一番の利点である.これは同時に欠点でもあるがそれは後に述べる.

第一の理由に付随するのであるが,第二に門戸が広がることがある.
少なくとも現代日本に於いては,その文章が日本語でないというだけで嫌悪感を抱く人間が少なくはない.
また,高校生・大学生程度*1ならば英語の文章ならばある程度読めるはずであるが,多くの小学生にはそれも流石に厳しい.
小学生の頃から学問的興味が多岐にわたる子は数はさておき存在する*2.日本語が堪能でない者でも日本語の文章を読み,理解することは出来ても,流石に英語の文法等々から理解させるのは流石に厳しい物がある.
そういった者にも読まれる文章が増えるというのは喜ばしいことこの上ない.

以上2点が翻訳の大きな利点である.

翻訳の欠点

翻訳の欠点は即ち翻訳という過程を通すことによる弊害である.

第一に,原文の意味が失われる可能性がある. 翻訳を考えるときに何よりも考えるべきことがあり,それは言語は1:1対応しないということである.
例えば多くの日本人は「desert」という単語を見た時,即座に「砂漠」と脳内で訳すだろう.
しかしそれは英和辞典に毒された思考であり,「desert」という英単語の英語的意味合いを考えていない.
ここでdesertを英英辞典で見てみると「a large area of land that has very little water and very few plants growing on it. Many deserts are covered by sand.」などとある*3.雑に訳せば「水も植物もとても少ない広大な土地.多くのdesertは砂に覆われている」といった程度である.
desertを砂漠と訳したところで大した問題はないと思うが,重要な事は直訳できない単語というものが多く存在するということである.
この辺りは色々理由があるのだが,要するに言語が風土に依存するということである.例えば日本には雨に関する単語*4が非常に多い.
話がずれたが,翻訳することは言語から別の言語へと書き下すことであり,その際に原文の細かな意味合いが失われる可能性がある.
一語で説明しないならば複数の語で……と対応もできるがそれでも意味が失われることが多い.

利点同様,これも第一の欠点と被るのであるが,第二に誤訳の可能性である.
多く書籍を読む者ならば分かると思うが,そもそも著者の母語で書かれた文章でさえ結構な割合で誤字脱字を孕む.
だがそれは多くの場合どう間違っているかは理解できるので,それは読んでいる文章が読者の母語であるかそうでないかはあまり関係がない*5
然らば他国語を母語に変換することにそのようなものが紛れ込む可能性が無いと言えないし,その上致命的な誤訳の可能性がある.
いくら翻訳対象の言語に習熟しているとはいえ母語ではない言語,どうしても過ちが生じる可能性は高い*6
そしてそれは翻訳の利点を少なからず殺してしまうことに成る.技術書で致命的誤訳があるものも……ある,悲しいことであるが.

このあたりが翻訳に関するおおよその欠点である.

饗宴について

原文の意味が失われる可能性,について一つ例を挙げておく.

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

上の書籍はプラトン著の饗宴である.これのp.74の一部を抜粋すると:

パゥサニアスがやめたので(*)――ご覧の通り、僕はこんな風に音をもじることをソフィスト達に教わったのだが――次にはアリストファネスの語るべき番が来た

とある.但し(*)は筆者によるもので,原著では脚注を示す(1)があり,脚注の内容は:

原文は頭韻を踏ませているが、これを訳出することはできない。いったいこの種の語戯は特にゴルギヤスが流行させたものである。

である.原文の「僕はこんな風に音をもじることを」が「パゥサニアスがやめたので」で韻を踏んでいることを意味している.
しかしこれは脚注にある通り日本語に翻訳したために全く意味のない文章になってしまっている.かと言ってその文章を消すわけにもいかないので脚注で対応した次第……というところであろう.
ではΣυμπόσιον(饗宴(ここではプラトンの著作))ではどうなっているであろうか?

— Παυσανίου δὲ παυσαμένου ,

「パゥサニアスがやめたので」と翻訳される部分だけをΣυμπόσιον (Πλάτων) - Βικιθήκηより引用した*7
見ての通り「Παυσανίου」と「παυσαμένου」で韻を踏んでいる.
この韻を日本語で再現するには,「パゥサニアス」という語に近い音と「話をやめる」という意味をを持つ日本語が必要になる.無茶だ.

Alice's Adventures in Wonderlandについて

Alice's Adventures in WonderlandはLewis Carrollによって1865年に著された児童小説である.
これには多くの言葉遊びが含まれている.その上原文そのものが平易な英語なため*8,非常に読みやすくかつどのように翻訳するかという,要は遊びやすい小説である.
ネット上の翻訳も盛んであり,題材としてこれ以上のものはないように思う.

おわりに

一連の翻訳に関するツイートは0RT0ふぁぼだったのに上のツイートのRTとふぁぼは察しの通りです.悲しい.

*1:ここでは学徒を意味する.

*2:小学生程度の子が英語に自主的に触れるsituationを想像した時,可能性としては文芸よりも学術的興味の方が高いのではないか,という個人的意見を孕んでいる.

*3:cf. Oxford Learner's Dictionaries

*4:驟雨,五月雨,淫雨,陰雨…….

*5:他国語の場合少々厄介かもしれないが,まあ,翻訳者には問題無いだろう.

*6:翻訳がだめという評価を下された書籍は多い.一般に有名なのはハリー・ポッターシリーズだろうか.

*7:ちなみにこれはプラトン(427-347)の生きた時代を考えれば,現代ギリシア語ではなく古代ギリシア語のアッティカ方言である.

*8:日本語の児童小説も平易な日本語である.