てきとーになんか書きます

過去の記事はね,汚点.

実質的に両親が離婚した

はじめに

まさかこの歳で実質的にとは言え両親が離婚するとは思っていなかったし,またそれに際して色々と思うことがあったのでまとめておきたかった(正直に言うと今現在は「離婚した」と聞いてはいないだけなので離婚したかしてないかが定かで無い).大体は自身の半生を振り返ることが本記事の目的である.
ところで「おわりに」以降を読めばそれ以外の文章は特には不要ではある.肉付け.小説と同じ.

またこの記事の2015/05/31に関する事項までは2015/05/31に執筆している.
それ以降に関しては大体当日に記している.
2015年8月16日現在,両親は離婚はしていないが別居状態であり完全に冷め切った関係にある.
所感としては実質離婚状態と思うところがあり,以下では現状を示す言葉として離婚を用いる.

重要な出来事を赤字で示した.

2015年現在の家庭状況

両親は共に55歳を越えていて,姉と兄は社会人で僕は大学3年生.
僕以外の家族は兵庫で暮らしていて僕だけが(2015/03/22から)岡山で一人暮らし.
大体こういう状況だった.

離婚を察した時期

勿論離婚というものはいきなりするものではない.
徐々に徐々に不仲になっていき……というのが大体のパターンだと思う.

「ああ,これは離婚するな」と明確に思ったのは2015/05/20の父親からの電話だ.明確に思ったと書いたが,実際は「別れようと思う」とはっきり言われたのでちょっと違うかもしれないが.
いずれにせよ以前までのことも含めて思い出話程度に書き留めていきたい.

保育園児時代

この時期のことはあまり覚えてないが,幾らか夫婦喧嘩があったのは覚えている.
この頃の父は怒った時の程度が激しく,喧嘩の際にはよく母が殴られたり掴みかかられていたのを記憶している.
以降も僕や姉,兄の体が成熟するまでは「やめて! やめて!」と兄弟3人で泣きながら父を止めていた. 今思えばこの時期から火種は撒かれていたのかもしれない.

喧嘩の原因は……よく覚えていないが父親は元より沸点が低めだったのでそのせいはあったと思う.
沸点が低く言い合いの喧嘩(父の怒鳴り声は凄まじかった)→母の発言で更に悪化して殴る……そういうのが多かった.
父の沸点がもうちょっと高かったら喧嘩にはなってなかっただろう,というのがこの時期(~中学入学ぐらい)は多かったと思う.

小学生時代

低学年

この時期には印象的な夫婦喧嘩があった.
この時期の僕は20時や21時とかに就寝していたが,その日,23時か0時頃に父親の怒鳴り声で叩き起こされた.
よくある夫婦喧嘩と思い,またいつも通り必死で止めていたのだが,いつも以上に程度が激しく,一頻りの喧嘩の後,母親が泣きながら僕をパジャマから普段着に着替えさせ「出て行こう,出て行こう」と何度も言っていたのを覚えている.
この時僕は本気で離婚を覚悟したし,当時一番仲の良かった友人に「両親が離婚するかも……」とまで言った.まあ,この時は離婚しなかったのだが.
唯,この出来事は僕に相当な傷を負わせたと思う.僕には結婚願望が全くと言って良いほど無いのだが,多分この喧嘩が根底にあるんじゃないかと思う(元より夫婦喧嘩が多かったのではっきりとは分からないが).

中学年

低学年の時ほど酷い喧嘩はなかったと思うが,父の性格はあまり変わっていなかった.
こんなことがあった.父に「スポーツ新聞を買ってこい」と言われ,僕は違う新聞を買ってきてしまった.それだけで父は僕を張り倒し,何度も蹴ってきた.この時の僕には父に抵抗できる力がなかった.

高学年

この頃から,激情に駆られる父を止めるのは僕と兄だけとなり,僕はあまり泣かなくなっていたと思う.
この時期も父の性格に大した変化はなかった.
朝方に父親がキレて,姉に向かって本(ジャンプだったと思う)を何冊も(確か顔面に)投げつけたり,皿も投げていた.勿論皿は割れた.

中学生時代

1年生の頃はそうでもなかったが,ソフトテニス部に入ったこともあって2年生には結構な筋力が僕についていた.
また,この時期の僕は精神年齢が(実年齢+3~5)程度はあったと思う.そのお陰か夫婦喧嘩の際も割りと落ち着いて止めることができていたと思う.多分これは筋力のお陰でもあったと思う.つまり力こそパワー.

内容がまとまってないが,1つ記すべきことは「この時期から父の性格が軟化したこと」だろう.
だが同時に,母の性格が悪化したのもこの時期であったと思う.
父は今までの行動を省みて穏やかになったが,母は今までの父との喧嘩(と言っても一方的に殴られるとかが多かったが)によって嫌悪感等々を募らせ,そしてそれが父との会話等に影響していっていた.

高専時代

この時期はそれなりに落ち着いていた.喧嘩がなかったという意味で.
ただこの時期から喧嘩の原因が「母がぐちぐちと余計なことまで言ったせい」にシフトしていく.
僕や姉,兄が「それ以上何も言うな!」と何度も言った.しかしそれでも口が止まらず,そして親父がキレる,そういうパターンだった.

高専3年生

この時期から悪化は加速する.
兄が謎の増長を始めるのだ.
父親が座る場所に座る,母親に暴言を吐きまくる……枚挙に暇がない.これが原因で父親が兄に向かって激怒し,家庭内の雰囲気が悪くなる,ということが多かった.

高専4年生

2013/12頃に犬を飼いだした
実際はなんか譲り受けた感じらしいのだが,まあそこはどうでも良い.
僕は断固飼うことに反対していたのだが,母と姉と兄が勝手に話を進めて,父に至っては飼う直前ぐらいに話をされたらしく,二つ返事で了承したそうだ.
今思えばこれが最大の過ちであったと思う.当時からある程度予見していたので僕は断固反対していたが……(単純に犬を飼うことなぞ面倒だという気持ちも勿論強かった).

高専5年生

朝,母が父の弁当を作らなくなる
何が最悪かって言うと,母は5:00頃に起床し,犬の散歩に行き,二度寝をし,そして7:00頃に起きるのだ.父は大体6:30頃には家を出る.そのため当然弁当を作られない.

更にこの時期から仕事から帰宅した母親がすぐ寝ることが多く(大体19-23時とか),父の夕食を僕が作る,ということが何度もあった.というか2日に1回とかはそうだった.

2014/12/09(?)-2015/02/20(?)は僕は卒研に掛かりっきりで帰るのが22:30とかになっていたが,まあ,その間の会話もお察しだったのだと思う.僕が帰宅した時母親は寝てる,父親はご飯を食べてない,という状況が何度もあった(更に補足すると,母が寝ているため父が自分で作る,ということもあった).

自分で言うのも何であるが,割りと僕が保たせていた感は結構あった.今になって思えば,だが.

大学時代

2015/03/22から岡山で一人暮らしを始めた.
2015/05/01-03と実家に帰ったが,僕は殆ど自室でゆっくりしていたのでリビングでの父や母の状況と言うのは把握していなかった.

2015/05/20:父親からの電話

学食で夕食を摂っていたところ電話が掛かってきたので10分後に掛け直してもらうよう頼んだ.
10分後,学食前ぐらいのベンチと机があってゆったり出来るスペースで電話を受け取った.約50分に渡る長い通話だった.その時の電話の最初の部分を以下に記そう.

僕「はい,どしたん」
父「んー,いや,まあ,なあ……なあ……やっぱりおかんと別れると思うねん」(「別れようと」ではなかった)
僕「………………」
父「聞こえたか?」
僕「えっ,あっ,ああ,えーと,ああ,うん,聞こえた」

大体こんな感じだった.
僕の沈黙は,長かった.自分でも驚くほどに全然声が出なかった.まあ,実際は10秒もいかないぐらいだと思うのだけれど.
電話の最初の方では,僕は殆ど父の言葉に応答するだけだった.「うん」とか「あー……」とか.言葉を紡ぐと泣くことが見えていたから.まあ,この返事だけでも半分ぐらいは泣いていたのだけれど.
自分でも泣くことはないと思っていたのでこれは意外だった.しかし現実に涙は出てしまったのだ.
この時の僕の感情は今でも言葉にしがたい.悲しみとかはそう多くはなかったと思う.実際,殆どが驚きだったと感じている,8割ぐらいは驚きと,残り2割に寂しさとか悲しみがいくらか混じっていたのだとは思う.まあ,10分もすれば落ち着いてきだしたので素面同様に喋れていたと思う.たぶん.

父親からの電話を要約すると,こうだ.
兄の弁当のみを作る母父の夕食の準備をしない母犬には感ける母と姉,兄父の座椅子で兄が朝食を摂り,机が汚いせいで台所でご飯を食べる父……などというのが2015/05中頃の家庭状況だった.
どうやら僕が一人暮らしを始めてから家庭状況は凄まじく変化しているようだった.

さすがにこのような状況とまでは思っていなかったので僕もなかなかに衝撃を受けたし,だからこそ「息子が言う台詞じゃないと思うけど,別れた方がいいと思うわと父に言った.大体原文ママ

あと一つ.「どこで間違ったか」を聞いた.
どこで間違ったかというと難しいものだがひとつ聞いたこととして,「元々母と結婚するつもりはなかったが,結婚の原因として母が長女を身籠ったことにあった」と.それで捨てるのはさすがにないと思ったらしく,結婚したそうである.
僕は大してダメージを受けなかったが,結局離婚の原因は妊娠させたことにあり,となると自分も元々生まれるべきでなかったのでは? などと疑問に抱く可能性がある.というより小学生ぐらいだったら思っていたかもしれない.多分相当ダメージを負ったと思う.これに関しては今ぐらいの年齢でよかった.

2015/05/20の父からの電話の内容は大体このような内容だった.

2015/05/25 母からのメール

突然母から「生活出来てる?」や「勉強大丈夫?」と言った身の上を心配するメールが飛んできた.
離婚の話するのかな? と思ったので「何かあった?」と聞くも,母はその話を切り出さなかった.
2015/05/31の父からの電話で発覚するのであるが,2015/05/20の父からの電話以降,父は一切挨拶もせず(おはようとか行ってきますとか),家族と一切会話をしなかったそうだ
恐らく母は離婚を察したのだと思う.たぶん.

2015/05/31 父からの電話・姉からのメール

離婚が確定するだろうという報告を受けた.まあ,実質確定か.
バイクの名義人変更とか後処理諸々をしていると言っていたし,3月以降に大きな金に関する領収書等(引っ越しの初期費用とか授業料とか)があればコピーしてとかも言われた.
まあ,確定ということだろう.

またこの日姉からメールが飛んできた.
「父から聞いたやろ? へこんでないかなって思って」という文面だったが,よくもまあそんなメールを寄越せるなと思ったものである.

2015/06/01 離婚について考える

離婚するとなれば色々面倒がありそうだ.親権だの苗字だの……残念ながら僕には両親が離婚した経験というかないもので,その辺りの知識が一切ない.

色々調べていたが,今父方の姓だとして,母が親権を持ってもこの苗字は変わらないそうだ(届け出を出さない限り)(大体そういう感じ).
まあ親権は……養育費とかどうだとかありそうなのでその辺りがどうなるかが分からない.
しかし調べてみれば親権は未成年者に掛かるものだとか,養育費は基本成人するまでだとか……結局面倒そうだ.ぐぐってもいまいち.
まあ生兵法は怪我の元とも言うし,曖昧な知識をつけるのもやめておいた方が良いのかもしれない.餅は餅屋.

2015/06/14,2015/06/21

2015/06/14

父親から「父さんだけど、元気で暮らしているかな。」なる意味深なタイトルのメールが届くが荷物を送りたかっただけらしい.
しかしよくよく考えればこれは身辺整理だ.

2015/06/21

父に荷物が届いたことを伝えると電話がかかってきた.
仕事が忙しくてぐだぐだしているがやはり別れる方向だそうだ.
とりあえず別居する,らしい.多分離婚するのだろう.

2015/07/06

父親から電話が来た.
曰く離婚届は貰ったということと,土曜日(2015/07/04)から別居を始めた,とのことである.
ここまで来ると「ああもう確定的だな」という感情程度しかなく,つまりは,悲しいとかそういうのはなくて,事実を確認したという感覚のみがある感じ.

おわりに

以降は特に何も話を聞いていない.もしかしたら離婚しているのかもしれない.してない可能性もあるが.事実として父親を除いた家族と,父親は別居状態にあることだけ記しておく.
2015/08/14に実家に帰ってきたが当然の如く父親はおらず,まあ,やはりという感じではある.

幼少期に両親のいざこざを見て育った子は,結婚願望が薄くなるのだろうと感じる.僕は結婚願望が非常に薄いが,恐らくそういう事情もあるのではないかと思う.ただもし結婚したならば子供の前では汚い部分は見せようと思った次第である.

一番重要なこと

父親からは結婚の経緯だとか何だとかを色々聞いていた.
父親は本来別の人を狙って(という程でもなかもしれないが)いたらしいのだが,色々な経緯を経て母親と結婚することになった.
その原因は長女を授かったからであり,つまり,きちんとゴムを付けてセックスをしていれば,今の母ではなく,別の人と結婚していたかもしれない.
それを踏まえた上で,セックスは絶対にゴムを付けてするということを教訓にして生きていきたい.