てきとーになんか書きます

過去の記事はね,汚点.

ソクラテスの弁明に見る「難しい言葉」

はじめに

プラトンの「ソクラテスの弁明」やアリストテレスの「形而上学」等といった書籍にはどうにも難しい単語や言い回しが多い.
その効果についてソクラテスの弁明を題材として見ていきたい.

ソクラテスの弁明

ソクラテスの弁明とはプラトン(BC427-BC347)による篇である.
プラトンの師であるソクラテスが裁判に掛けられており,死罪を回避するために(正直そう回避しようとは思ってないが)弁論をする……という内容である.
基本的にはソクラテスの独白であり,極一部にのみ対話が行われる.

難しい言葉

ここでは難しい言葉を「知らない人間が多い単語」としておきたい.もしくは難しさの尺度として「分かる人間の程度」としておく.
例えば「青」は多くの人間が分かる言葉であるが「群青」となると若干難しくなるし「千草色」や「藤納戸」は分かる人が限られる.

また漢字を旧字体などにすれば難しくなる.
例えば「涜神」より「瀆神」の方が難しい.

ソクラテスの弁明からの引用

ここである程度ソクラテスの弁明から出てくる単語を引用,解説しておく.
先の通りソクラテスの弁明はほぼ全編がソクラテスの台詞となっている(地の文がソクラテスの台詞).

細かな単語が全体的に少し難しくなっているのが所感である.
例えば「諌める」を「諫止」に,「明らかに」を「闡明」などである*1
またソクラテスの弁明には「禍」が良く出てくる.
だがこれは難しい単語を使うというよりは「福」と対になるように定めたと言うべきである.
他漢字で言えば「放棄」を「抛棄」としている.

この手の書籍では「然るに」を多用するように思う.最近の小説ではあまり見ないような気がするが.
僕自身最近の小説はあまり読まないが,数十年ぐらい前ならば使っていたのではないだろうか?
例えば高木貞治の解析概論*2は「然らば」を多用している.
「然らば」は堅い(雰囲気を持つ)語である.この手の語では「だったら」,「じゃあ」,「ならば」,「然らば」と堅くなる.
「然るに」も「然らば」同様に堅い.

意味付け

こういった難しい単語を使う意義は何であろうか.例えば性格付けができる.
地の文で使えば少し堅めの雰囲気になるだろうし,セリフに用いればその人の性格を表すことになる.
その人の性格は例えば偏屈かも知れないし,賢者かも知れないし,そこは色々である.
難しい言葉は使うが論理が理路整然としていないならば,その人物は唯唯難しい単語を使おうとしている,とも性格付けられるからである.
ソクラテスの弁明においては,ソクラテスの知性などを表現するのに一役買っている.

おわりに

まあぶっちゃけそのせいでこういう本ってめちゃくちゃ読みづらいんだけどね.面白いんだけどさあ.

*1:前者の単語でも問題はないだろうし,「普通の小説」ならそうするだろうという意味である

*2:小説ではないが

MtGの拡張アートを始めた話.

はじめに

久しく離れていたお絵かき.やはり楽しい.

お絵かき

自分は中学2年の時のクラスメイトに影響されて絵を描き始めた.当時は授業中もいつも絵を描いてばっかでいた.
普通の中学校だったので,授業は聞いてなかったが成績は常に10位程度だったのでまあ十分だったと思う.
高専に入ってから久しく絵を描いていなかったが,MtGの拡張アート(カードに描き込みを入れる)を見て,昔使用していたアクリル絵の具を取り出し,始めた次第である.
折角なのでここに自分の描き方(描き順?)を記しておく.たぶん普通の描き方.

拡張アート

MtGでは拡張アートを施したカードが大会でも使用できるという割りと珍しい部類に入ると思う.
マジック:ザ・ギャザリング イベント規定|マジック:ザ・ギャザリングから引用すれば.

カードに芸術的な修正が加えられているものは、それが戦略的にほとんど意味がない場合に限り使ってもよい。そのイベントでどのようなカードが許容されるか、またどの程度の記録が許容されるかについての最終的な決定権者はヘッドジャッジである。 ――2.11より

また,

芸術的な修正は認定イベントでも許容されうるが、その修正がカードのイラストを識別できなくしていたり、戦略上意味のある情報を含んでいたり、問題のあるイラストを含んでいたりしてはならない。芸術的修正によってマナ・コストやカード名が隠れたり変わったりしていてはならない。
あるカードがそのイベントで使用できるかどうかを決定するのは、ヘッドジャッジである。
――3.3より

とある.これは2016年1月22日発行のものである.

描き方

  1. カードを選ぶ
    これが案外どれにするか迷うもの.絵柄を見つめて,インスピレーションを得たらば勢いでどんどんイメージを膨らませていけば良いと思う.今回のはタルキール覇王譚の森を使用.イラストはGathererから.
    f:id:spark6251:20160301001224j:plain

  2. ジェッソで下塗りをする
    周りの枠が厄介なので,マスキングテープで必要な部分をマスキングし,ジェッソで枠を塗りつぶす.この時裏面もマスキングしておけば(枠を作る感じで良い)裏面が汚れ無くて済む.ジェッソを塗ると以下のように成る.
    f:id:spark6251:20160301000910j:plain
    画像のように下書きをする.ジェッソの上は鉛筆で良いが,マスキングテープの上はボールペンじゃないといまいち見えない.

  3. 空を塗る
    今回のカードで一番遠いものは空である.なので空から塗っていく.例えば今回のイラストの木より空の方が手前に来ることはない.
    f:id:spark6251:20160301000924j:plain
    空を塗っていく.
    f:id:spark6251:20160301000930j:plain
    塗り終わるとこんな感じ.正直空が鮮やかすぎた.もっと灰色を重ねればよかった.難しい.
    カード名の上辺りで空白があるのは明らかに木を描くから.

  4. 下の建物を塗る
    ここで建物の上(草とか木とか)を先に塗るか建物を塗るかは好みだと思う.僕は建物を先に塗ろうと思った. f:id:spark6251:20160301000934j:plain
    左下が明らかに明るすぎる.これも痛いミス.
    f:id:spark6251:20160301000938j:plain
    本当は左側の建物の部分ももっと詳細に塗りたかったが,右の建物の◇の部分でさえこれなのに,左の建物の◇は無理だなと思ってごまかした.この後はマスキングテープを剥がして木を描く.

  5. 完成
    f:id:spark6251:20160301000945j:plain
    明らかに左下が明るすぎるのと,空が鮮やか過ぎたのが問題.それ以外はスリーブを付けてプレイすれば案外目立たなかったりする.ちなみにこれは拡張アート始めて5枚目.

おわりに

色を作るのは慣れないと難しいけどやっぱりお絵かき楽しいよね.
色塗りがかなり苦手な自分でも頑張ればそれなりには描けるので頑張れば大抵の人はいけるはず.
細かなアクリルガッシュでのテクニックはそういう記事を探した方が早いと思う.

ThinkPad X201のCMOS電池を交換した話

はじめに

まただよ(笑)

以前ThinkPadのバックライトが死んだっぽかったので液晶を交換した
症状はなくなり順調かと思いきや再発.
残る可能性はCMOS電池,ここにCMOS電池を交換するに至ったのであった.

手順

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いつも通りキーボードとパームレストを外すとすぐCMOS電池が見えるからCPUのグリス塗替えに比べれば非常に楽.

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この新しいCMOS電池を

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裏の両面テープを剥がして

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付けておしまい.

おわりに

起動は確認.完治すれば良いが.

翻訳,それと原文に関する雑感

はじめに

翻訳は極めて偉大な所業に相違ない.それは万人が認めるところであろうと思う.
しかし同時に,翻訳された文ではなく原文を読むべきという意見もある.それもまた当然のことである.
細かいところはさておき,この辺りについての雑感を記しておきたい.

翻訳の利点・欠点

翻訳は素晴らしいものであり利点は大きい.だが欠点があるのも事実である.それについて少し述べる.
特に主張しない限りここでは他国語で書かれたものを母語に翻訳されたという仮定をおく.

翻訳の利点

第一に,言うまでもなく他国語の文章が母語で読めることである.
小説であれ論文であれ漫画であれ,他国語のものはその言語に精通していなければ充分に読むことが出来ない.
論文や教科書の類ならばそれはまだ楽である.文章の構成は基本的に定まっていて,(多少の慣用句に関する知識は必要であれど)無駄に複雑な言い回しはしない.
しかし小説や漫画などになるとそうもいかない.
それこそ母語で書かれたそれを読めば分かるだろうが,まず母語に精通していなければ容易に判断できないであろう文章,セリフと言うのは多く存在する.
他国語で書かれたそれを,他国語に精通しておらずとも母語の言葉で理解できる.これが一番の利点である.これは同時に欠点でもあるがそれは後に述べる.

第一の理由に付随するのであるが,第二に門戸が広がることがある.
少なくとも現代日本に於いては,その文章が日本語でないというだけで嫌悪感を抱く人間が少なくはない.
また,高校生・大学生程度*1ならば英語の文章ならばある程度読めるはずであるが,多くの小学生にはそれも流石に厳しい.
小学生の頃から学問的興味が多岐にわたる子は数はさておき存在する*2.日本語が堪能でない者でも日本語の文章を読み,理解することは出来ても,流石に英語の文法等々から理解させるのは流石に厳しい物がある.
そういった者にも読まれる文章が増えるというのは喜ばしいことこの上ない.

以上2点が翻訳の大きな利点である.

翻訳の欠点

翻訳の欠点は即ち翻訳という過程を通すことによる弊害である.

第一に,原文の意味が失われる可能性がある. 翻訳を考えるときに何よりも考えるべきことがあり,それは言語は1:1対応しないということである.
例えば多くの日本人は「desert」という単語を見た時,即座に「砂漠」と脳内で訳すだろう.
しかしそれは英和辞典に毒された思考であり,「desert」という英単語の英語的意味合いを考えていない.
ここでdesertを英英辞典で見てみると「a large area of land that has very little water and very few plants growing on it. Many deserts are covered by sand.」などとある*3.雑に訳せば「水も植物もとても少ない広大な土地.多くのdesertは砂に覆われている」といった程度である.
desertを砂漠と訳したところで大した問題はないと思うが,重要な事は直訳できない単語というものが多く存在するということである.
この辺りは色々理由があるのだが,要するに言語が風土に依存するということである.例えば日本には雨に関する単語*4が非常に多い.
話がずれたが,翻訳することは言語から別の言語へと書き下すことであり,その際に原文の細かな意味合いが失われる可能性がある.
一語で説明しないならば複数の語で……と対応もできるがそれでも意味が失われることが多い.

利点同様,これも第一の欠点と被るのであるが,第二に誤訳の可能性である.
多く書籍を読む者ならば分かると思うが,そもそも著者の母語で書かれた文章でさえ結構な割合で誤字脱字を孕む.
だがそれは多くの場合どう間違っているかは理解できるので,それは読んでいる文章が読者の母語であるかそうでないかはあまり関係がない*5
然らば他国語を母語に変換することにそのようなものが紛れ込む可能性が無いと言えないし,その上致命的な誤訳の可能性がある.
いくら翻訳対象の言語に習熟しているとはいえ母語ではない言語,どうしても過ちが生じる可能性は高い*6
そしてそれは翻訳の利点を少なからず殺してしまうことに成る.技術書で致命的誤訳があるものも……ある,悲しいことであるが.

このあたりが翻訳に関するおおよその欠点である.

饗宴について

原文の意味が失われる可能性,について一つ例を挙げておく.

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

上の書籍はプラトン著の饗宴である.これのp.74の一部を抜粋すると:

パゥサニアスがやめたので(*)――ご覧の通り、僕はこんな風に音をもじることをソフィスト達に教わったのだが――次にはアリストファネスの語るべき番が来た

とある.但し(*)は筆者によるもので,原著では脚注を示す(1)があり,脚注の内容は:

原文は頭韻を踏ませているが、これを訳出することはできない。いったいこの種の語戯は特にゴルギヤスが流行させたものである。

である.原文の「僕はこんな風に音をもじることを」が「パゥサニアスがやめたので」で韻を踏んでいることを意味している.
しかしこれは脚注にある通り日本語に翻訳したために全く意味のない文章になってしまっている.かと言ってその文章を消すわけにもいかないので脚注で対応した次第……というところであろう.
ではΣυμπόσιον(饗宴(ここではプラトンの著作))ではどうなっているであろうか?

— Παυσανίου δὲ παυσαμένου ,

「パゥサニアスがやめたので」と翻訳される部分だけをΣυμπόσιον (Πλάτων) - Βικιθήκηより引用した*7
見ての通り「Παυσανίου」と「παυσαμένου」で韻を踏んでいる.
この韻を日本語で再現するには,「パゥサニアス」という語に近い音と「話をやめる」という意味をを持つ日本語が必要になる.無茶だ.

Alice's Adventures in Wonderlandについて

Alice's Adventures in WonderlandはLewis Carrollによって1865年に著された児童小説である.
これには多くの言葉遊びが含まれている.その上原文そのものが平易な英語なため*8,非常に読みやすくかつどのように翻訳するかという,要は遊びやすい小説である.
ネット上の翻訳も盛んであり,題材としてこれ以上のものはないように思う.

おわりに

一連の翻訳に関するツイートは0RT0ふぁぼだったのに上のツイートのRTとふぁぼは察しの通りです.悲しい.

*1:ここでは学徒を意味する.

*2:小学生程度の子が英語に自主的に触れるsituationを想像した時,可能性としては文芸よりも学術的興味の方が高いのではないか,という個人的意見を孕んでいる.

*3:cf. Oxford Learner's Dictionaries

*4:驟雨,五月雨,淫雨,陰雨…….

*5:他国語の場合少々厄介かもしれないが,まあ,翻訳者には問題無いだろう.

*6:翻訳がだめという評価を下された書籍は多い.一般に有名なのはハリー・ポッターシリーズだろうか.

*7:ちなみにこれはプラトン(427-347)の生きた時代を考えれば,現代ギリシア語ではなく古代ギリシア語のアッティカ方言である.

*8:日本語の児童小説も平易な日本語である.

楕円を経路とする複素積分を2通りに解釈して式を導出しろという問題


はじめに

Cauchyの積分公式のapplicationとして,パラメータの取り方によってnon-trivialな結果が得られることがある.それの例を示す.
2年次開講科目の演習時間に解いてので纏めた次第である.

問題

曲線 Cを楕円 \displaystyle \frac{x^{2}}{a^{2}}+\frac{y^{2}}{b^{2}}=1を正方向に1周するとし \displaystyle \int_C \frac{dz}zを2通りに解釈して
\begin{align}
\int_0^{2\pi}\frac{dt}{a^{2}\cos^{2}t+b^{2}\sin^{2}t}=\frac{2\pi}{ab}
\end{align}
を示せ.

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電気回路を用いたPólyaの再帰性定理の証明

確率論 (新しい解析学の流れ)

確率論 (新しい解析学の流れ)

3年後期のゼミで上の本の第3章の輪講を行っている.
内容としては電気回路を用いた確率論の話色々である.
で,先日Pólyaの定理( \mathbb{Z}^d上のSimple Random Walkは d=1,2の時再帰的, d\geq3の時非再帰的)の電気回路を用いた証明を行った. 教科書のギャップを(ほとんどなかったけれど)埋めたものをpdfとして置いておく.

工学部の友人等でも分かるよう最初の方にある程度DefやLemを示しておいた*1

polya.pdf - Google ドライブ

2016/01/26:加筆・誤字修正

*1:エネルギー消費量や電流の定義をしていないが,高校物理程度の理解で問題ないだろうし省いた.

2015年の振り返りと2016年の抱負

はじめに

新年が明けた.
2015年は自分の周りではなかなかに激動の年だったと思うし,ここで振り返りと,そして本年の抱負を書いていきたい.

2015年

1月・2月

明石高専での卒研に忙殺されていた.
元々自分が悪かったのだが,卒研開始日時が実質2014年12月10日頃であったため,それに追われていた.
7:00ぐらいに学校に行っては22:00に学校を出るといった生活をしていた.無事論文を書き上げ卒業することができ,担当の先生には感謝しか無い.

3月

3月20日には卒業式があった.無事卒業できて嬉しい限りである.
卒業アルバム(冊子)も配布されたわけだが

酷いものである.

翌日にはシラバスの印刷のために学校に行ったのだが「何故卒業式の翌日に学校に来ているのだ……」と思っていた.悲しい.

4月

晴れて岡山大学理学部数学科に3年次編入することとなった.
2年の科目を全て網羅していたわけでもなかったので,ここから始まる3年前期は,2年前期・2年後期・3年前期の内容を同時並行するという忙しさであった.しかし楽しくもあった.

学生番号は素数ではなかった.

5-12月

基本的に数学しっぱなしの大学生活だった.特に前期は2年次の遅れを取り戻す必要もあり毎日23時までは学校で編入生3人で数学をやり続けた.

細かいところを見れば,

楽しくもあり,また色々あった年でもあった.

2016年

新年が明けたわけだが,今年も暇なわけではない.
進学するため夏には院試があるからそれの対策もしなければならない.
4月からは卒業研究(研究じゃあ無いが)も始まる.基礎をきちんと固め直しつつ,自力を付けていきたい.

正直なところ大学院の専攻は未だに悩んでいる.
元々数学科に入った理由は「大学の工学部が楽しくなさそう」というのが一番大きかったし,それは正しかったと思うのでそこは満足している.
もう1つMotivationとしてあげるなら代数であった.量子コンピュータに興味を持って,アルゴリズム関連で代数の話題が盛んだったのでそこに興味を持った……が,実際数学科に入ってみると解析を楽しいと思いだし3年次の卒業研究の予行のようなものでも確率論のゼミに進んだ.たぶん4年次でも同様だと思う.

それはさておき大学院である.
元々は数学科に編入して学部レベルの数学を一通り学んだあとは工学に戻るつもりだった.特に筑波大学コンピュータサイエンス専攻に進みたいと考えていた.
しかし今はそのまま数学専攻でも良いのではないかとも考えている.その場合も進むとしたら恐らく確率論だろう.
どうしたものか.
唯,4月から数学科に編入しての自分の思考を思えば,純粋数学は楽しいがやはり工学への応用が好きなんだろうな,というところである.

おわりに

今は正月休みを満喫している.
果たして今年はどんな年になるか,楽しみである.何があるかは分からないが,楽しんでいきたい.